木村 浩子
私の母は、2002年5月15日に敬老ナーシングホームで亡くなりました。5月19日で71歳になる直前でした。
父は、母が亡くなる6ヶ月前の2001年10月に、3ヶ月間、母が一人で自宅介護をした後に亡くなりました。母は、亡くなる5年前に乳癌の手術をしましたが、再発し、自らも放射線治療を受けながら父の在宅介護を続けていました。 妹も私も小さい子供がいて、妹は他県に住み、私はロサンゼルス在住であり、心苦しくも両親の手助けをできる状況ではありませんでした。父が亡くなった後、母の主治医か ら癌再発と転移が良くない状態であると知らせがありました。癌スペシャリストの受診をさせたかった私は、息子日本人学校の卒業式に出席してもら いたいという口実のもと、一人暮らしの母にロサンゼルスに来てもらうことにしました。 ロサ ンゼルスで母の容態が日増しに悪化して、胸水が溜まるたびに抜いてもらうような状態となりました。それでも生きる気力は失わなかったものの、自力でトイレに行けなくなった日に、母は初めて入院したいと懇願しました。
敬老ナーシングホームに入院した時に、職員の方々が日本語で母に接してくださる様子を見て私は泣いてしまいました。自宅では夫の手助けがあったものの、英語のできない母がロサンゼルスで入院することに不安を感じていたからです。
母は翌日の夜に亡くなりました。亡くなった際にも職員の方々の温かいお声がけに救われ、心から敬老ナーシングホームに入院させてよかったと感謝しました。私だけではなく、ご家族を敬老ナーシングホームで亡くされた方々の感想でもあると思います。
その敬老ナーシングホーム、引退者ホーム、サウスベイ・ナーシングホーム、中間看護施設のすべてが、当時の「敬老」CEOと理事会によって、日系社会の売却反対や公聴会の開催要求の大きいな声に一切答えず、2016年2݆に営利企業に売却されたときには、私のような境遇の家族が失ったものの大きさに心がつぶされそうでした。
『祖国へ、熱き心を 東京にオリンピックを呼んだ男』というフレッド・和田 勇氏のドキュメント・ノベルを高杉 良氏が書いています。その中で、敬老高齢者施設の施設に尽力された和田氏は当時の総領事室でこう語っています。「昔苦労した老人たちが安心して住める場所を確保するために、われわれは頑張ってきたつもりです。しかし、老人たちを救うばかりが目的ではありません。三世、四世の若者たちに後顧の憂いなくアメリカ社会で仕事をしてもらうためにも、引退者ホームは必要なんです。(中略)もっとビジネスの世界に出てもらいたい思うてます。ビジネスの世界で失敗すると年寄りの面倒が見切れないとか、老後が心配だとか言うので、おまえたちが失敗しても大丈夫なように、お前たちの年寄りは全部面倒みてやる、だから失敗を恐れずに思い切って仕事をやれと僕はいうとるんです。」
和田氏は2001年2݆に亡くなられました。
その15年後に、当時の日系三世CEOが率いる「敬老」理事会が、施設経営を手放しました。そして、「この方がもっと 多くの日系人高齢者のためになるから」と、営利企業への施設売却に踏み切ったことは、悲運だと嘆くしかないのでしょうか。
カリフォルニア司法長官から言い渡された5年間の日本文化に考慮した施設の継続期間は、残り一年未満になりました。日系高齢者施設は誰のために設立されたのかという原点に回帰し、いま改めて日系高齢者施設の必要性を考えてみてください。
あなたやあなたのご家族が安心できる終の棲家を永久に消滅させてはならない、と私は思います。
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