新原 豊(にいはら・ゆたか)
Vol.12 与えることは、希望になる
人の生き死にには、実にさまざまなものがあります。命あるものには必ず終わりがきますが、ふだんの私たちはそのことを忘れています。しかし末期がんのような重篤な病に侵されたとき、その生命の限界と、嫌でも向き合うことになります。
そのとき、「限られた命だから、残された日々を精いっぱい大切に生きよう」とする人がいる一方で、あきらめて、生きることを放棄してしまう人もいます。
また、とことん命にしがみつき、一分一秒でも長くこの世の生に執着する人もいます。息が苦しいというので、酸素マスクをつけると、「そんなやり方ではもっと苦しくなるじゃないか」と、とうとう死の当日まで怒りつづけたまま亡くなった患者さん。
このタイプのがんには、Aという治療法とBという治療法が適していますからとすすめても、「それだけじゃ足りない、治らない」と不服を漏らし、治療の途中で他の病院へ鞍替(くら が)えしてしまう患者さん。
かと思うと、医者の私にも「先生、もうよけいな延命治療は不要ですから」とやわらかく釘(くぎ)を刺して、静かに満ち足りて旅立っていった患者さん。
人生の終わりを安らかに迎えるかそうでないかを分岐するポイントが、私にはむさぼる心のあるなし、つまり、欲にしがみつくか欲を離れるかにあるような気がしてなりません。
私が直接看取(み と)った例ではありませんが、末期がんに侵された二〇代のある女性がいました。まだ結婚したばかりの、幸せのただなかにあるときの発病で、最初のうちは、「なぜ自分が」「なぜ、この若さで」とひどい絶望の中で苦悶(く もん)されたようです。
しかし、病気が進行し、やがて死期が迫るころには、死ぬことは全然怖くないという心境にいたったといいます。
そればかりか、「夫や両親も自分が死んだらひどく悲しむだろう、そのことがとても申しわけない」と周囲に配慮し、「私のことはもう心配しないで。これから楽になれるんだから」と慰め、さらに「私の死後も悲しまないで明るく生きていってほしい」と励ましながら、静かな死を迎えたのです。
死は生の中断ですから、どのような死にも「満足」ということはありません。多かれ少なかれ、それまで生きていた世界に未練が残るはずです。だれもがこの世に心を残して亡くなっていきます。
けれども、この方は周囲への思いやりと気くばりを残して去っていった。
自分の死を受容しながら、家族や周囲の悲しみを気づかい、思いやりながら亡くなっていった人の死が例外なく安らかであるのは(少なくともそれが周囲の目に安らかに映るのは)、むさぼるのではなく、与えているからではないでしょうか。
この女性はこの世に愛を残し、人々に心を分けて旅立っていかれました。