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「受喜与幸~受ける喜び、与える幸せ~」 

新原 豊(にいはら・ゆたか)

Vol.7 病気や苦しみは何のためにあるのか

 鎌形赤血球症の患者さんの壮絶な痛みが、人間らしさを奪ってしまう光景をたくさん見てきた私は、しだいに自分の医師としての使命は、「痛みをやわらげること」であると感じるようになりました。そこで現在は、ホスピスで緩和医療にも従事しています。


 病院という多くの生と死の姿を目にする場所は、さまざまな感慨を私の胸にもたらします。たとえば、人間の精神の深みに存在している「強さ」もそのひとつ。生と死の様相を間近に見ていると、命はもろくはかないものですが、人間の心はときに鋼のように、あるいは野の雑草のように強いこと、また美しくもあることが実感として胸に迫ってくるのです。


 同じ病に侵され、同じように死を待つしかない状態の人でも、限られた時間の過ごし方はさまざまです。最後まで希望を捨てず、そして周囲への感謝の気持ちを忘れずに、安らかに亡くなっていく方と、その反対に、最後まで不平不満を言いつづけて亡くなる方……。


 両者を分けるものは何なのでしょうか。どんな状況の中でも、希望を捨てずに生きられる強さや美しさは、いったいどこからやってくるものなのでしょうか。そういうことを考えずにはいられなくなるのです。


 私たちはふだん、病気や病気の苦しみをマイナスの意味でしかとらえていません。健康はありがたく、価値があるもの、失いたくないもの。だから、病気は無価値で、避けるべきもの、憎むべきもの、というようにです。


 しかし、病気という逆境に負けることなく、むしろ、その負の境遇の中にあるからこそ、ささやかだけれどもたしかな生きる意味と価値、ときに喜びさえ見いだそうとする人の例に触れると、実は病苦というのは人をやさしく、美しく、強くする磨き砂の役割を果たしていることに気づかされます。


 病苦は人間を人間らしくし、成長もさせる滋養分なのかもしれません。だから、病気から得るものがあるし、病気からしか得られないものもあるはずなのです。


 少なくとも、痛みや苦しみがないと、人はつい傲慢(ごう まん)になってしまう不完全な存在です。その傲慢さをいましめ、不完全さを知らせるために、病苦というものが人間に与えられているのかもしれないと思うのです。


 もちろん、強い人ばかりではありませんし、お手本のような死ばかりではないことも事実です。死を静かに受容した人が最初から、そうした強さをもっていたわけでもありません。


 最初は、だれもが「なぜ、自分だけが」と衝撃を受け、不安や絶望に苦悩します。けれども、やがて多くの人が苦しみつつも、与えられた運命を受け入れ、病の床にありながら生きる意味を見いだして、短いが濃い時間を過ごそうと試みるようになっていきます。

つまり、最初から備えられた強さでなく、苦しみや弱さを乗り越える過程で与えられた強さであること。そうであるがゆえに、なおさら、その生と死が神々しく感じられるのです

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